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≪日本人にみる継続学習≫

 夏本番をむかえ、私の朝はますます早く始まります。今朝、心震える言葉たちに出逢いました。何度か目にした文章、あらためて静寂の中で読み、鳥肌が立ちました。その文章は私淑するドラッカー博士の論文の中にありました。

 ドラッカー博士が日本画の、それも水墨画の研究家だということを知っている人はごくごく少数です。日本と中国の水墨画の本質的違いなど、鋭い洞察に門外漢の私も驚かされます。今日ご紹介したい言葉は、「日本画に見る日本」という論文からです。

 「十分と八十年」。禅師の短い答えに秘められた深い教えの言葉です。それは禅の始祖である達磨大師を描くために「どれだけの時間を要したか」との問いに対する高僧、はくいん白隠えかく慧鶴の答えでした。

 八十年要したという言葉は、何を意味しているのでしょうか。技術の修得でしょうか。いいえ、始祖達磨大師を描ける人間になるまでの精神的な修行のための時間の積み重ねがそれだけ必要だったのだとドラッカー博士は解説しました。

 さらにそのモチーフの達磨大師の存在をこう語ったのです。「知識ではなく叡智に、力ではなく自己規律に、成功ではなく卓越性に焦点を合わせた生き方である」と。そんな存在を描くのに80年の修行が必要だったというのです。

 この言葉は、日本人に特有の継続学習の考え方を表しているといいます。10分でできる簡単なことを、さらにできるようにするために学習する。それは昇進や新しいことに挑戦するための学習とは異質なものです。日本には芸能分野の人間国宝やロケットの先端を手作業で仕上げるものづくりの神業師たちがいます。習熟曲線の高原を突き抜け、さらに次の高原を目指す人たちがいます。単なる技能習得のためではありません。精神的な練磨により人間を変える行為です。

 ドラッカー博士は、警鐘を鳴らしています。しかるべき幼稚園に入ること、しかるべき小学校に入る道、しかるべき中学校に入ることがしかるべき高校、大学に入る道、そしてしかるべき企業への道…それがあるべき姿なのかと。それはどうみても次の試験、次の昇進、次の外なる報酬の準備への道であり、日本人の持って生まれた自己を練磨するという学びの考え方とは異質なものだと…。

 理想論と知りつつも、修行好きの私としては、見逃せない一言です。日本人の素晴らしさを再確認した、夏の日の夜明け直前のホットな出来事でした。

ナレッジアドバイザー 佐藤 等

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