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ナレッジメール便【経営のヒント 410】

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◆ 経営のヒント~ドラッカーのナレッジ ◆    ◆◆◆
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◆◆◆                  ◆  ◆   ◆    第410号

今日は『傍観者の時代』第12章「ヘンリー・ルースと『タイム』『フォーチュン』」からです。
ヘンリー・ルースは雑誌王として知られ、当時『タイム』を創刊後15年が経過し、
1930年には『フォーチュン』を世に送り出していた。

<ドラッカーの一言>
!☆!☆!☆!☆!☆!☆!☆!☆!☆!
私はIBMからの抗議には耳を貸さない
つもりだった。
!☆!☆!☆!☆!☆!☆!☆!☆!☆!
『マネジメント<下>』p.272 1973年 ダイヤモンド社

1939年の春、『「経済人」の終わり』が出版されると、雑誌王ルースが肉筆の手紙を
ドラッカーに送ってきました。
『タイム』の国際面の編集者への誘いが目的でした。

当時、ドラッカーは定職に就いておらず誘いに揺れますが、
ルースのやり方にはついて行けないと判断し、断りを入れました。
しかし彼は1年後、再び仕事を持ってきました。

暗礁に乗り上げていた『フォーチュン』創刊10周年記念号の救出という仕事でした。
ドラッカーはこれを受け、記念号と遅れていた定期号の記事の一部の編集を
行うことになりました。

その定期号の記事にIBMとトーマス・ワトソン・シニアの会社ストーリーの記事がありました。
記事の担当者は入社したての記者の初仕事でした。記事の出来はひどく、
切り口も間違っていました。記事は中傷といってもいいレベルのものでした。
時間的に記事の差し替えは難しく、原稿段階でトーマス・ワトソンの目に触れることになりました。

この対応に追われるドラッカー。
「私はIBMのからの抗議には耳を貸さないつもりだった。
とにかく記者を守り、文章に手を入れることにした。
ルースには、IBMからの電話はすべて私に回すよう指示を出してもらった」。

予想通りIBMから電話が来ました。
「トーマス・ワトソンです。私の会社について書いた記者さんと話がしたい」
「記者は出られません。記事のことでしたら私にどうぞ。私が担当の編集者です」
「記事のことじゃない。記者と直接話をしたいんだ」

・・・やり取りは続きます。

「ご用件はお伝えしますが」
「わが社の広報部長にスカウトしたい。給料は希望をいってくれ」
「ワトソンさん、記者が辞めようが辞めまいが、記事は出ますが」
「当然だ。記事が出ないんなら、この話は無しだ」

・・・緊迫した会話はまだ続きます。

「記事はお読みになりましたか」
「私と私の会社についての記事はいつも全部読んでいる」
「それでも、うちの記者を広報部長にほしいんですか」
「もちろん。少なくとも彼は私の話を真面目に書いている」

その後、くだんの記者が広報部長にスカウトされたかどうかはわかりません。
ドラッカー教授の著作にIBMの話が多く出てくることは、この一件とはもちろん関係ありません。
しかし教授は、この章で当時のIBMの状況を記しています。
「IBMは、あの大恐慌の時代をタイムレコーダという地味な製品で乗り越えていた。
独自の技術などほとんどもっていなかった」云々。

コンピュータ前のIBMは、ようやく中堅企業と言えるかどうかという程度の小さな会社でした。
しかし行っていることはユニークでした。
トーマス・ワトソンは、従業員を首にするくらいなら倒産のリスクも辞さないとして、
恐慌でもレイオフを行わないという方針を堅守していました。

このように『傍観者の時代』には、ユニークな人ばかりが登場するようですが、
人はすべて面白いというのがドラッカー教授の持論です。
本書は人を通して時代を観るという意欲的で魅力あふれる著作になっています。

佐藤 等

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