マネジメントとは科学であるとともに同時に人間学である【経営のヒント 626】
2年半続いた<原理のマネジメント>に一区切りをつけ、
今回から新しいテーマ<マネジメントと人間力>に取り組みます。
初回は、少し理屈っぽい文章になります。
申し訳ありませんが我慢して読んで下さい…笑(しかも初回は長い…)。
それでは起点となるドラッカー教授の言葉から始めます。
「マネジメントとは、科学であるとともに同時に人間学である。
客観的な体系であるとともに、信条と経験の体系である」
『マネジメント<上>』p.38
西洋には「人間学」にあたる言葉は存在しません。
英語ではhumanity、本来は人文科学と訳され哲学や心理学などを含む包括的な言葉です。
その中で「人間とは何か」は哲学における典型的な問いです。
この問いは、以下のように哲人たちによってさらに多様に掘り下げられてきました。
人間はなぜ「矛盾」に満ちた存在なのか…モンテーニュ
自由なはずの人間がなぜ鎖につながれたのか…ルソー
「人間の本質」というものはそもそもあるのか…サルトル
しかしそれは、人間やその状態の説明に終始し、ドラッカー教授が言った「信条や経験の体系」として、いっこうに深まっていきません。
なぜか。
その理由を、サルトルは「実存は本質に先立つ」と簡潔に表現しました。
「実存exist」とは、現実存在の意味で、日本語ではわかりにくいのですが、直訳すると「外に出ている」「外にある」という意味です。
つまり人の本質は、人の内面にあるのではなく、外部にあると考えます。
具体的には、行動がともなわない実存は存在しないも同然だということです。
「人間とは何か」という問いに立ち向かうには、書斎での思索では限界があるのです。
西洋の人文科学humanityには、哲学の他、倫理学や神学という領域があります。
ドラッカー教授は「倫理的な概念は、その最高形態において、道徳的な高潔さと偉大さをもたらしてくれる」といいます。
しかし「倫理的な概念が与えることができるものは、禁欲的な諦観だけである」と批判します。
倫理学では生死の問題を正面から扱わないからです。
この点は、神学や宗教の出番なのですが、宗教の力によって時間や社会における人間実存の問題に取り組んだ者は少数です。
その一人にドラッカー教授も高く評価した哲学者キルケゴールがいます。
このように哲学のみならず倫理や宗教にも限界があるといわざるを得ません。
ドラッカー教授のいうhumanityは、日本では人文科学と訳されますが、西洋発の概念の中には、
日本人がイメージする「人間学」の要素はあまり入っていないように感じるのは、私だけでしょうか。
humanityを単に人文科学と訳すとき、私は何か重要なものがこぼれ落ちるように感じます。
「人間学」という訳出は、翻訳者上田惇生先生の手によるものです。
「人間学」という言葉に、「こぼれ落ちる重要な要素」を汲み上げようとする深い意図を感じます。
少なくとも日本人ならばイメージすることができる言葉として「人間学」を当てたのだと思います。
実際、次の言葉は、人間学の目的である「人間力の向上」の重要性を示唆しています。
投じられたものが生産要素の一つ、特に資本だけであった社会では、発展は起こらなかった。
これに対して、マネジメントの能力を醸成した社会では急速な発展があった。
つまるところ、発展とは資力ではなく人間力human energiesの問題である。
その人間力の醸成と方向づけこそマネジメントの役割である。
『マネジメント<上>』p.40
これは、哲学や倫理とは、だいぶ距離をおいた、どちらかというと人を生産要素と見る経済学に近い考え方です。
しかし単に使えばなくなる金融資本のような費消型の無機的な存在ではなく、
人間力というコンセプトは使うほどに価値を増す本質的な存在を前提としているように思われます。
私は、上田惇生先生の単なる訳出の妙ではなく、ドラッカー教授の真意を組めば、
本来西洋の概念にはない東洋の「人間学」という概念をマネジメントのもつ科学的な側面に接合させ、
より深い体系に深化させるべきとのメッセージを翻訳に込めたものと映るのです。
幸いドラッカー教授には、セルフマネジメントの領域があり、
また真摯さと訳されたintegrityなど習慣や人格に関する接続断面があります。
この辺りを手掛かりに新しいテーマ<マネジメントと人間力>を綴っていこうと思います。
ということで少し長くなりましたが
マネジメントに東洋を起源とする人間学を接続する試みについてメルマガで発信を始めます。
しばし難題、しかし確実にマネジメントが深化するテーマにおつき合いください。
佐藤 等(ドラッカー学会理事)