ドラッカー教授の求めていたマネジメントを学ぶ姿勢【経営のヒント 641】
<マネジメントと人間力>というテーマは、次の言葉から始まりました。
「マネジメントとは、科学であるとともに同時に人間学である。
客観的な体系であるとともに、信条と経験の体系である」
『マネジメント<上>』p.38
この連載を始める頃から、人間学に関する著作に触れる機会が増えました。
今日は、その学びの中から感銘を受けたことをお伝えします。
この連載にも度々、登場する伊與田覚先生とその師である安岡正篤先生のやりとりが記されています。
安岡先生は、昭和、平成と多くの政財界の大物も師事していた人間学の泰斗です。
その先生が弟子の伊與田先生に言います。
「形骸を求めるな」。
その「形骸」とは、現代では安岡教学と呼ばれる、そのものでした。
安岡先生は、処女作が『王陽明研究』だったことから陽明学者と勘違いされていることも多いのですが、先生はそれを否定しています。
陽明学でも朱子学でもなく「孔子が求めていたものを求めている」と。
まさに刮目させられるものがあります。
私たちも、ともすればドラッカー教授の教えを学ぼうとしがちですが、ドラッカー教授の求めていたマネジメントを学ぶ姿勢を忘れてはいけないということです。
ドラッカー教授の教えを学ぼうとすると陳腐なものを手にすることになります。
これに対してドラッカー教授の求めていたものを学ぶ姿勢は、今なお生成発展するマネジメントと向き合い、実践していくことに通じています。
それはまさに信条と経験の蓄積であり、それがまた科学的なものが生まれる源泉となるのです。
ドラッカー教授は、理論は現実にしたがうと言いました。
現実は、人類の営為、実践により作られます。
その中から生まれた法則、理(ことわり)が、理論です。
理(ことわり)には、必ず現実があります。
理(ことわり)だけを学ぼうとすると形骸を手にすることになります。
ドラッカー教授がマネジメントを生み出した背景を学ぶ意味は、そこにあります。
社会や文明の危機をきっかけに形成された理(ことわり)がマネジメントです。
そこには、人類の愚かな営みを含む現実があります。
マネジメントという体系を生成発展させるには、そのような根の部分を学ばずして不可能です。
安岡先生と伊與田先生のやり取りから、冒頭の言葉の深い意味を考えさせられました。
佐藤等