<「ドラッカー教授の教え」と出会う~前編~>
先週、京都のお客様を訪問し、一汗かいてきましたが、北海道もやっと初夏の雰囲気を感じることができるようになってきました。
さて突然ですが、今年の8月で公認会計士となって満20年が経ちます。これを機に、これまでを少し振り返ってみようと思いますので、しばしお付き合い下さい。
会計士という業界には会計士補というインターン時期があります。私は3年ほど過ごし最終試験に29歳で合格しました。それから20年。結婚も同年11月でしたからやはり20年になります。振り返れば、仕事も家庭もあっという間の出来事です。
当時、監査法人にも所属し、給与があったこともあり、初年度の会計事務所の売上は、146万円。職員はもちろん0人でした。その後、数年はビジネスクリニックの代表となりコンサルティングを中心に仕事を開始しました。
お客様の現場に入り、一緒に汗を流しながら仕事をさせてもらいました。当時は月額何百万円というお客様も複数あり、24時間・365日体制で働いたものです。役職員も10名を超す体制で仕事をしていましたが、若気の至りと申しましょうか、なかなか結果のでない現場もありました。
平成7年には、人生最大のピンチがやってきます。年間3,000万円を超す報酬をいただいている現場で成果が出ないのです。約束の1年がドンドン迫ってきます。一向に業績は上向かず、自宅を出ると吐き気が襲ってきます。根本の原因は、買収の失敗。その点については、ノータッチでしたので責任を問われることはありませんでしたが、業績回復への結果責任の重圧は若い身には堪えました。お蔭様でストレス耐性は、ずいぶんと向上しましたが・・・(笑)
結局、このときの躓きからコンサルティング会社の業績も下降線。資金繰りも苦しく、人員の縮小を余儀なくされました。1年間の撤退戦の後、平成9年に場所を移して今の法務会計プラザに参加することになりました。心機一転、開業以来続けてきた会計事務所業務に集中する決断をしたのです。氣持ち的にはゼロからの出発です。幸い優秀なスタッフは残っていましたので順調にシフトは進みました。
ただ、この数年で私の中に残ったものは、現場を変えることができなかったことからくる一種の無力感でした。「何が足りなかったのか・・・」それ以降、心の中にマグネットが出来上がります。月日は流れ、平成12年。そのマグネットに吸い付くように引き寄せられたものが「ドラッカー教授の教え」だったのです。
<つづく…次回もお付き合い下さい>
ナレッジアドバイザー 佐藤 等