「トラウン伯爵と舞台女優マリア・ミュラーの物語」【経営のヒント 403】
今日は『傍観者の時代』第5章「トラウン伯爵と舞台女優マリア・ミュラーの物語」からです。
<ドラッカーの一言>
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16歳の私は、生意気にも、
刑罰についての決定版ともいうべき
論文を書くことにした。
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『マネジメント<下>』p.110 1973年 ダイヤモンド社
ウィーン国立劇場の舞台女優、そしてプロデューサー兼演出家のマリア・ミュラーとトラウン伯爵は、
クリスマスと元旦にドラッカー家に必ずやって来る関係性でした。
両者のいきさつの記述は置いておき、14歳頃のドラッカー少年の心境が記述されています。
「私は大人に交じって大人として働きたかった」。
これが14歳当時のドラッカー少年の気持ちでした。
つまり、大学進学をせずに就職につきたいと希望していたのです。
それは親の期待とは異なるものでした。
第1次世界大戦後のその頃、「大学に行かなくとも不名誉でも不利でもなかった」というのです。
ドラッカー少年は、父親の希望を聞いて大学教授になるかどうか迷っていました。
何かを研究しアカデミックに物事を考えることができるかどうかはわからないと思っていました。
ドラッカー少年は、実業の世界ならば二流でも十分でも、
学者は一流でなければ意味がないと考えていました。
14歳の選択基準です。
この思考はドラッカー教授の生涯を貫いていました。
そこで自分の力を試すべく「刑罰の根拠」というテーマで論文を書こうと決めたのです。
法学者のハンス叔父さんに法哲学で最大の難問は何かと聞いた結果でした。
結局、「茨の森」に足を踏み入れたことを悟り、論文は諦めることにしました。
しかし、この過程で出会った法哲学と社会学の文献との出会いを衝撃だったと回想し、
のちに大きな影響を与えられたと記したのです。
自らの進路に迷い、最難関に挑み自分を試し、そのうえで自らの進むべき道を
自ら決して行った若き日のドラッカー少年に、のちに
マネジメントという最大の難問に立ち向かい道を切り開いていったのと同じ
挑戦心を感じるのは筆者だけでしょうか。
佐藤 等