怪物ヘンシュと小羊シェイファーの運命」【経営のヒント 406】
今日は『傍観者の時代』第8章「怪物ヘンシュと小羊シェイファーの運命」からです。
両者は、ドラッカー教授を巡るナチスを原因とする新聞会社を舞台にした物語です。
短い章ですが、伝える内容が内容だけに長文になります。
ご容赦下さい。
<ドラッカーの一言>
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おそらく最大の罪は、これら昔からの二つの
悪ではなかったと考えるにいたった。
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『マネジメント<下>』p.200 1973年 ダイヤモンド社
1927年、ウィーンから就職のためハンブルクに来た17歳の少年ドラッカーは
輸出商社に勤めました。
その後、フランクフルトに移り、証券会社で証券アナリストの職に就くも世界恐慌に遭遇、
フランクフルト最大の発行部数を誇る夕刊紙『フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー』に
就職しました。
二年後には国際面を担当する記者兼編集者兼論説委員になっていました。
同時にドラッカー青年は、フランクフルト大学で助手をしていました。
ナチスはドイツで政権を取ると、国内のリベラルの旗手の同大学の改革に着手し、
全ユダヤ人の学内立ち入り禁止、教職員の解雇を通知しました。
拡大教授会で「手前ら、いうことを聞けなければ収容所だ」と言いい放つナチスに対し、
沈黙する面々。
リベラル的な思想で尊敬を得る生化学者が何かを言ってくれるのを待ちますが、
彼は「大変よくわかりました。(中略)生化学の研究費はこれからどうなりましょうか」と
とんでもないことを言い放ちました。
ドラッカー青年は48時間以内にドイツを出ようと決心しました。
その間の仔細は省略しますが、ドラッカー青年はナチスが政権を取ったドイツに失望し、
国外に出る決断をするためにナチス批判となる論文をある雑誌に投稿していました。
そして大学から戻ると校正刷りが届いており、急いで仕上げました。
その夜、新聞社の同僚ヘンシュが慰留のためドラッカーのもとを訪問します。
彼は古くからのナチス党員で、その時、幹部の立場にありました。
個人的な関係で訪れたのですが、彼と語り合ったその晩、ドラッカー青年は
フランクフルトに来て初めて自宅に鍵をかけたと記しました。
論文は予定通り、発禁処分となり目的を遂げました。
ロンドンに脱出したドラッカー青年は、晴れてドイツに居られない身になったのです。
そのヘンシュとの再会は12年後でした。
「ナチス・ドイツの親衛隊SS副司令官のヘンシュ中将逮捕時に自殺」との報に接した時です。
彼は殺人部隊を率いて部下からも「怪物」ヘンシュと恐れられていました。
その後ドラッカー青年は、ウィーン経由でロンドンに渡ります。
唯一の知り合いアルベルト・モントゲラス伯爵に連絡を取ると「至急来られたし。
助力を請いたきことあり」との電報を受け取りました。
ドイツから脱出してきたドラッカー青年に「パウエルがそのポストを受けると、
とんでもない悲劇になる。君なら、彼が飛びこもうとしている世界が
どんなになっているかを教えてやれると思う」。
そのポストとは…。
パウエル・シェイファーは、ドイツ最高の新聞『ベルリナー・ターゲスブラット』の
ユダヤ人の80歳の編集長ヴォルフに代わってポストを引き継ぐことを打診されていました。
ヴォルフからアメリカに派遣されたシェイファーは、フランクリン・ローズベルトに
重用されていました。
「小羊」シェイファーは、引き留める二人に言います。
「ヴォルフの仕事を引き継ぐことは僕の義務だ。『ターゲスブラット』を野蛮人から守ることも僕の義務だ。国をナチスから守ることもだ」とリスクを承知で引き下がろうとしませんでした。
結局、就任し、ナチスに利用され、利用価値がなくなると新聞社ごと姿形を消されました。
ドラッカー教授は、同時期に起った新聞社を巡る2人の人物の行為に思いを馳せ
「二人のうち、いずれが行おうとしたことの方がより多くの害をなしたか」を考え続けていました。
冒頭の今日の一言につながります。
昔からある2つの大罪、ヘンシュの権力欲求、シェイファーの自己への過信。
いずれが罪多きことだったのか。
ドラッカー教授は、一つの結論に到達します。
「おそらく最大の罪は、二〇世紀に特有の無関心という名の罪、すなわち、殺しもしなかったし
嘘もつかなかった代わりに、讃美歌にいう『彼らが主を十字架につけたとき』
現実を直視することを拒否したあの学識ある生化学者による罪のほうだったと
考えるにいたっている」。
ドラッカー教授は「知りながら害をなすな」との古き至言の大切さを説きます。
おそらく、その言葉の重要性の裏に、件の生化学者の顔が見え隠れするのは
筆者だけでしょうか。
長文にお付き合いいただきありがとうございました。
佐藤 等