ドラッカー教授自身がアメリカ上陸後、数年間で体感した生の記憶です【経営のヒント 436】
長く続いた『傍観者の時代』も最終章の第15章となりました。
タイトルは「お人好しの時代のアメリカ」です。
何とも不思議なタイトルですが、ドラッカー教授自身がアメリカ上陸後、数年間で体感した生の記憶です。
<ドラッカーの一言>
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私が指摘しておきたい最も重要なことが、あの
移民局の係官に象徴された不況期のアメリカ
に特有だった人の好さと行動力だった。
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『傍観者の時代』p.344 1979年 ダイヤモンド社
1937年にドラッカー一家はアメリカに移り住みました。
その時のドラッカー青年の職業は、イギリスの新聞の在アメリカ特派員、
およびイギリスの金融機関の在アメリカ投資顧問でした。
年が明け1938年、ヨーロッパ取材旅行の際に移民局の係官に提出した
所得証明を見て次のようにいわれました。
「あなたの去年の年収は1800ドルだったわけだ。ずいぶんと少ないね」
「外国語もしゃべれるんだったら、移民局なら五割は余計にもらえるよ。
ここは給料がいいんだ。(中略)ちょっと待ってて。」
書類をもってきた彼は次のように言いました。
「いま記入すれば今日中に上役のサインをもらっておくよ。
靴屋を一緒にやっていたんだ。
ヨーロッパから帰って来たときには勤められるようになっているよ。」
何と移民局の係官に就職の斡旋話を持ち掛けられたのです。
もちろんサインはしていませんが…
ドラッカー教授は、この係官のことを
1930年代末の不況とニューディール時代のアメリカ、お人好しの小春日和のアメリカ
を象徴するものとして長く記憶にとどめることになります。
さて年収ですが、
実際のところアメリカに移り住んだ5月以降のもので月収250ドルはありました。
医師である弟の就職先や自分たちの住居、事務所に至るまで
移民局の係官のような人が
次々と現れて、縁もゆかりもない土地で決まっていったのです。
教授は当時を懐述していいます。
「懸命に働く必要はあった。安定だけを求める者にとっては辛かった。
しかしそれは嫉妬や羨望には無縁の社会だった。誰かの成功はみなの成功だった。
むしろ共通の敵への一撃だった。誰もが、人を励まし、力を貸した。
仕事口があることを耳にすれば仕事を必要としている人を探した。
仕事を必要としている人のことを耳にすれば仕事を探した」
ヨーロッパでみた大衆の絶望とは異なるものがアメリカにはありました。
青年ドラッカーはヨーロッパで失われた社会的な絆をアメリカの社会で見たのではないでしょうか。
それは、後に『産業人の未来』(1942)を執筆する原動力になったことは間違いありません。
佐藤 等