アメリカ上陸後の数年間で体感した生の記憶を回想します【経営のヒント 439】
『傍観者の時代』の最終章の第15章は「お人好しの時代のアメリカ」です。
ドラッカー教授自身が、アメリカ上陸後の数年間で体感した生の記憶を回想します。
その中でも次の言葉は教授自身の価値観を吐露しています。
<ドラッカーの一言>
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私自身は小さな単科大学に魅力を感じていた。
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『傍観者の時代』p.358 1979年 ダイヤモンド社
ドラッカー教授は、1930年代に「難民学者がアメリカに押し寄せた」と記述しました。
彼らは、ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキアなどから不況まっただ中のアメリカにやってきました。
そして「アメリカという国が、母国にいたのでは有能であるにすぎなかったであろう彼らを
一流の学者に育て上げ」ました。
その理由を「彼らはニーズに応えさせられ学問の境界を超えさせられた」と述べました。
のちにドラッカー教授自身が経験しますが、統計、哲学、美術などの異分野を
大学で教えることになるのです。
ノーベル賞クラスの物理学者が生物学を教えるなど、
ヨーロッパでは許されることではなかったとその異質性を指摘しました。
「ヨーロッパでは総合大学の一員たるべきことを要求されることなどありえなかった」。
この言葉は、逆にアメリカではそれを求められたことを意味しています。
ドラッカー教授は、魅力を感じていた小さな単科大学の規模を150~700人と明示し、
私の眼には「アメリカの単科大学こそ価値あるものに思われた」と強調しました。
教授は第二次世界大戦が始まる頃から「書き手としての仕事の基盤をアメリカに移すとともに、
講演者としての仕事を増やす」という決断をし、実行しました。
講演は年間50~60回、その半分は小さな単科大学でした。
ドラッカー教授が評価したものは何だったのでしょうか。
おそらく教授の目に映ったものは多様性ではなかったかと思います。
総合大学が同質化していくのに対して、特徴を残しつつ光り輝く姿だったと思われます。
当時、有名大学にも負けない学力を誇る単科大学がありました。
19世紀初頭の塾のような単科大学がありました。
夜9時半には学生寮の電気を消してしまう単科大学がありました。
単科大学の方が財政状態がよく、有名な教員をそろえる大学がありました。
また産学連携など新たな取り組みを始める大学もあり、先進性を発揮する機会もありました。
こうして1942年にドラッカー教授は、バーモント州の単科大学、ベニントン大学で、
教授として政治、経済、哲学を教えることになりました。
教授の新しい生活がスタートしたのです。
佐藤 等