ポランニー一家と『社会の時代』の終焉【経営のヒント 404】
今日は『傍観者の時代』第6章「ポランニー一家と『社会の時代』の終焉」からです。
<ドラッカーの一言>
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いま振り返るならば、あのときの数週間は、
悪夢のような日々であったものの、
私にとっては実り豊かな季節であり、
カールにとっても大きな転換期だった。
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『マネジメント<下>』p.146 1973年 ダイヤモンド社
1940年の夏、ドラッカー夫妻はヨーロッパ有数の経済雑誌『ザ・オーストリアン・エコノミスト』の
副編集長カール・ポランニーと夫妻の長女の2歳にもなっていないキャスリーンとともに
バーモント州の山荘にいました。
ヨーロッパでは、1939年に第二次世界大戦が勃発し、
フランスの降伏など悪夢のような報道を連日耳にする日々で、
カールはイギリスへの攻撃の激化で帰国できずにいました。
ドラッカー教授は1939年に処女作『経済人の終わり』を刊行しました。
この書は、ヒトラーが政権を取った直後に構想し、長い懐妊期間を経てアメリカで出版されました。
ここにドラッカー教授の生涯の職業として名乗った作家(ライター)が誕生したのです。
そして1940年の夏、ドラッカー教授は悪夢のような日々の中で実りの季節を迎えていました。
第二作の構想が練りあがり、着手する準備が整ってきました。
ヒトラーの敗北後の世界の政治と社会のあり方を追求した
『産業人の未来』は、このような時代背景の下で生まれました。
後に『産業人の未来』を読んだGM(ゼネラルモーターズ)の幹部が
ドラッカー教授に同社の調査を依頼しました。
こう考えれば、マネジメント誕生の契機となった一冊ということができます。
未来を切り開くマネジメントという思想の起源は、
こうした暗く悪夢のような日々の中から生まれた著作をベースとしているのです。
偉業を成した人の人生を振り返れば、世に出る前のある時期、集中的に物事に取り組むことができる天から与えられたギフトのような時間の存在があったとこに気がつきます。
アインシュタイン、西郷隆盛など古今東西を問わず、例外は少ないように思えます。
ドラッカー教授にとってのギフトは、1933~1942年の10年間、
もう少し短く見積もればアメリカに移住した1937~1942年の5年間ということができるでしょう。
その結果、実りの季節が訪れたのです。
私たちは、土を耕し、種を植え、丹精込めて育てるというプロセスを飛ばして
実りだけを求める愚を犯しがちです。
促成栽培は、早く衰退する。
時間をかけて育成したものは、長期にわたって風雪に耐える。
自己開発や人材開発には欠かせない思考です。
佐藤 等