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≪高知『坂本龍馬』を訪ねて≫

 先日、土日を利用して高知市を訪ねてきました。10月だというのに気温が30度もあり南国気分。目的は、皿鉢料理とお酒・・・ではなく「坂本龍馬」。数人の即席調査団でしたが何れ劣らぬ龍馬ファン。3つの記念館をじっくり見てまわり、各自彼の偉大さを再確認してきました。それにしても薩長同盟のコーディネートと大政奉還のシナリオとなった「船中八策」の構想という2つの偉業をなぜ成し遂げられたのか?追求は、歴史学者や龍馬研究家に任せるとして、自分なりには、やはり「出逢い」により目を開き、持ち前の行動力で前進したためと結論づけたいと思います。高知のレオナルド・ダ・ビンチと言われる河田小龍、意見が合わなかったら叩き切ろうと思って逢った勝海舟、そしてその勝から松平春嶽、西郷隆盛など幕末の要人を次々に紹介され、出逢いを重ねていきます。龍馬は、本から知識を得たのではなく、多くの人に出逢い、意見を聞き、自分で考えたことをまとめ行動に移して行きます。「日本を洗濯する」という発想はそこから生まれます。多くの人に出逢い刺激を受ける、大きなスタンスで全体の構想を真剣に考える、他人(社会)のために行動するなど私たちの日頃の行動においても大切なものを再確認できた2日間でした。

 さて、その龍馬、実は無類の蝦夷地ファンでした。ご存知でしたか?二度、蝦夷行きの船を手に入れ、二度断念しています。一度は池田屋事件での同志の死、二度目は紀州藩の船との衝突による沈没。大政奉還後の新政府のメンバー表を龍馬は作っていますが、自分の名前を入れていません。1867年10月14日大政奉還を上奏し「日本の洗濯」を終えて、これでやっと「蝦夷地」経営に専念できると思っていたことでしょう。しかし1ヵ月後の33歳の誕生日に近江屋で暗殺。惨劇を伝える屏風を見ていると無念さが伝わってきます。日本を回天させた龍馬は、蝦夷地/北海道の将来に何を見ていたのでしょうか?その潜在力を私たちは、ちゃんと活かしているのだろうか?自問自答・・・大きな宿題をもらって帰路に着きました。

ナレッジアドバイザー 佐藤 等

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