「反体制運動家ブレイルズフォード」【経営のヒント 407】
今日は『傍観者の時代』第9章「反体制運動家ブレイルズフォード」からです。
この章は、24歳のドラッカー青年と36歳年上の反体制運動家ブレイルズフォードの物語です。
<ドラッカーの一言>
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左翼ではない私が、自らの考えをまとめる
手段として選ばれた。
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『マネジメント<下>』p.200 1973年 ダイヤモンド社
「手段として選ばれた」とドラッカー教授は、2回、そう回想しました。
ドラッカー青年が反体制運動家ブレイルズフォードに会ったとき、
既に彼は1930年代すでにイギリスとアメリカでは有名な文筆家でした。
彼は良心の人だとドラッカー教授は記しています。
しかし権力には無縁な、常に体制に異議を唱える最後のイギリス伝統の反体制運動家でした。
反宗教、反戦。
彼は戦争特派員として1912年から13年にかけてバルカン戦争を自ら取材しました。
延々と続く悲惨な戦いを報じる彼の記事は人気でした。
のちにまとめられたバルカン記はベストセラーになったほどです。
バルカン戦争終結の数か月後、第一次世界大戦が勃発。
彼は平和主義者ではなく、反戦論者でした。
正義の戦争、不正義の戦争を区別し、バルカンを巡る戦争はブルガリアにとっては
正義の戦いとしました。しかし大国の戦いに正義はないと論断しました。
彼は勤め先である有力紙『マンチェスター・ガーディアン』を辞めざるをえませんでした。
戦後は反動で反戦運動家が一転ヒーローに。
しかし彼は新たな運動に身を投じました。
運動を探したというより、運動が彼を見つけたのでした。
インド独立の論客としてネルーやガンジーとも付き合いがあったといいます。
その後、彼の関心はソ連共産党に移りました。
それは当時伸長していたナチス・ドイツに対抗する唯一の勢力だったからです。
その際に「左翼ではない私が、自らの考えをまとめる手段として選ばれた」のです。
彼のソ連礼賛は一大センセーションとなりました。
真摯さと純粋さを持ち合わせたノエル・ブレイルズフォードが言うのだから間違いない。
これはスターリンの虐殺や粛清の格好の隠れ蓑となりました。
しかしあろうことか独ソが不可侵条約結び、彼の構想は打ち砕かれます。
「彼の心は、あらゆる権力に抗する良心に戻るべきことを命じていた」と
ドラッカー教授は、その心境を描写しました。
「敵の敵は味方である」という政治感覚が、悪を許したのです。
ブレイルズフォードは共産主義との決別のタイミングを計ります。
そして、「彼がいよいよ共産主義と手を切ることを決心したとき、
再び私が、そのための手段として選ばれた」のです。
その方法は奇抜でしたが、確実なものでした。
それは、ドラッカー教授の処女作『経済人の終わり』の序文にて
共産主義との決別を宣言することでした。
ドラッカー教授の著作の出版社の紹介者がグレイルズフォードであったこともあり、
この奇抜なプランは実行されます。
同時に彼の意図した通りに共産主義者から攻撃を受けることになりました。
彼は誹謗中傷という高い代償を払って良心を取り戻したのです。
1958年にブレイルズフォードが亡くなったとき、イギリスでさえ
無名な存在となっていたとドラッカー教授はこの章の冒頭で述べました。
20歳半ばのドラッカー青年の出版までの一幕を彩る物語です。
佐藤 等